「信仰と希望と爱をもって神の约束を生きるヨセフ」教皇一般謁见
教皇フランシスコは、1月29日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで一般謁见を行われた。
「わたしたちの希望、イエス?キリスト」を主题とするカテケーシスで现在「イエスの幼少期」の考察を続けておられる教皇は、この日は「ヨセフへの告知」をテーマに讲话を行われた。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
今日も、福音书に语られるイエスの诞生の神秘のうちに、わたしたちの希望であるイエスの観想を続けよう。
ルカ福音书は母であるおとめマリアの视点から幼児期のイエスを観想することを可能とする。これに対し、マタイ福音书ではヨセフの视点からそれを観想させる。ヨセフはイエスの法的な父の立场を引き受けることで、イエスをエッサイの株に接ぎ木し、メシヤはダビデの子孙から出るという约束に结びつけた。
事実、イエスは成就されるイスラエルの希望である。イエスはダビデに約束された子孫として(参照 サムエル下7,12、歴代誌上17,11)、ダビデの家を「とこしえに祝福された」ものとする(参照 サムエル下7,29)。また、イエスはエッサイの株から萌えいでる新芽であり(参照 イザヤ11,1)、治め、正義の業を行う真の王となるべき「正しい若枝」(参照 エレミヤ23,5、33,15)である。
マタイ福音书で、ヨセフはマリアの婚约者として登场する。ユダヤ人にとって、婚约は法的関係そのものであり、それはおよそ1年后に迎えるであろう结婚式を準备するものであった。结婚により女性は父亲の保护下から夫の保护下へと移り、夫と共に家に住み、母となる恵みに备えることになる。
ヨセフはまさにその婚约期间にマリアが身ごもっていることを知り、彼の爱は厳しい试练にさらされた。婚约を破弃すべきような、こうした状况に対し、律法はその解决として二つの可能性を示していた。一つは女性を法廷に召唤するなどの公的な法的行為、もう一つは女性に离縁状を手渡すなどの私的行為である。
マタイは、ヨセフを「正しい人」、つまり、主の律法を生き、人生のあらゆる時にもそこから霊感を得る人と定義している。こうして、神の御言葉に従い、ヨセフは慎重に行動し、本能的な感情や、マリアを迎え入れることへの恐れに流されずに、神の叡智に導かれることを選んだ。ヨセフはことを表沙汰にせず、ひそかに、すなわち私的にマリアとの縁を切ることを決心した(参照 マタイ1,19)。この賢明さによって、ヨセフは誤ることなく、夢を通して自分の中に響いた主の声に心を開き、それに従うことができたのである。
こうした態度により、ナザレのヨセフは、もう一人のヨセフ、「夢見るお方」とあだ名されたヤコブの子のヨセフを思い起こさせる(参照 創世記37,19)。このヨセフは父やヤコブから非常に愛され、兄たちからは大変憎まれた。神は、ファラオの宮廷に座らせることで彼を高められた。
では、ナザレのヨセフはどのような梦を见たのだろうか。ヨセフは、神がマリアの人生に起こした奇跡と、神が彼自身の人生に起こした奇跡についての梦を见た。それは、守り、保护し、物的?精神的遗产を伝えることのできる父亲としての役割を负うことであった。ヨセフの花嫁は胎内に神の约束を宿していた。すべての人に救いの确信をもたらす、その神の约束は一つの名前を持っていた。それはイエス、わたしたちの希望なる神であった。
ヨセフは梦の中で次のような言叶を闻いた。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は圣霊によって宿ったのである。マリアは男の子を产む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1,20-21)。この启示を前に、ヨセフはそれ以上のしるしを求めず、神を信頼し、自分の人生と婚约者の人生をめぐる神の梦を受け入れた。こうしてヨセフは、信仰と希望と爱をもって神の约束を生きる方法を知る者の恵みの中に入っていく。
ヨセフはこれらのすべての出来事に、何も言わず、信じ、希望を抱き、愛した。彼は無用な言葉で自分の気持ちを表さず、具体的な態度で示した。ヨセフは使徒ヤコブが「御言葉を行う人」と呼ぶ人たち(参照 ヤコブの手紙1,22)の系譜に属していた。ヨセフは神を信頼し、従った。「神のために内的に目覚めたその存在は...自ずと従順になる」(ベネディクト16世『イエスの幼年時代』2012,57)。
话すよりも耳を倾ける恵みを、神の梦を梦に见る恵みを、洗礼を受けた瞬间からわたしたちの人生の中に生き、成长されるキリストを责任を持って受け入れる恵みを、わたしたちも主に愿おう。