教皇「身近におられるイエスを贫しい人々の中に认める」
教皇フランシスコは、1月6日(月)、正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。
この日は、カトリック教会の暦で「主の公现」を祝った(※日本の教会では今年は1月5日(日)に「主の公现」を祝った)。
教皇は祈りに先立つ説教で、イエスとの出会いを求めて遠方から旅に出た東方の博士たちのエピソード(参照 マタイ2,1-12)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
今日、教会は、神の栄光がイエスをとおし、すべての人に現れたことを祝う。福音は、イエスを拝むために長い旅を続け、エルサレムにやって来た東方の博士たちについて語っている(参照 マタイ2,1-12)。
このエピソードに注意を払うならば、少し不思议なことに気づくだろう。贤者たちが远方からイエスに会うためにやって来たのに対し、近くにいた人々は谁もベツレヘムの洞窟に向けて一歩たりとも踏み出さなかった。
星の存在に惹かれ、それに导かれた博士たちは、多大な旅费を工面し、自らの时间を割き、その时代によくあった多くの危険と不确かさをも受け入れて旅に出た。彼らが救い主なる王に会うためにあらゆる试练を乗り越えていったのは、人类の歴史上唯一の何かが起きていることを知っており、それを逃すわけにはいかないと念じていたからである。
それに対し、エルサレムにいた人々は、そこに駆け付けることが容易で、もっと幸せなはずであったのに、行动を起こそうとはしなかった。祭司长や律法学者たちは圣书を正确に解釈して、メシアがどこにいるのかを东方の博士たちに示したが、彼ら自身は自分の椅子から动くことはなかった。彼らは自分たちの持っているもので満足し、何かを探求する意志はなく、エルサレムから出かける価値はないと思っていた。
この事実は、わたしたちの中にある种の问いを起こさせる。今日、わたしたちは、どの立场に属しているだろうか。夜中に急いで洞窟に向かった羊饲いや、人となられた神を探して信頼のもとに旅立った东方の博士たちにより似ているだろうか。それとも、物理的にごく近くにいても、自分たちの心や人生の扉を开くことなく、イエスの存在に无関心な人たちにもっと似ているだろうか。
东方叁博士に加え、エルサレムに遅れて到着した四人目の博士がいた、という言い伝えがある。この博士は、まさにイエスが十字架につけられている时に到着した。彼が遅れたのは、その道中、イエスのために持って来た様々な宝物を贫しい人々に施していたからであった。年老いてからエルサレムに到着したその博士に、イエスは十字架の上から、「あなたが最も贫しい兄弟たちに行ったことは、わたしのために行ったのである」と言われたという。主はわたしたちが他の人に行ったことを全部ご存じなのである。
わたしたちが羊饲いや东方の博士たちのように、身近におられるイエスを、贫しい人や见捨てられた人の中に认めることができるよう、おとめマリアに助けを愿おう。