「自分の洗礼の日を思い出そう」教皇、お告げの祈りで
教皇フランシスコは、1月12日(日)、お告げの祈りをバチカンの広场の巡礼者と共に唱えられた。
典礼暦で「主の洗礼」を祝ったこの日、教皇は祈りの前に、ルカ福音书に语られるイエスの洗礼の场面(ルカ3,15-16、21-22)を取り上げ、説教を行われた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
今日记念する「主の洗礼」の祝日は、わたしたちが受けた洗礼をはじめ、多くのことを考えさせる。イエスは、罪のゆるしのために洗礼を受けに行くご自分の民と一绪になられる。
典礼の賛歌にある「裸の魂と、裸足で」という言叶をここで思い出したい。イエスも「裸の魂と、裸足で」ヨハネから洗礼を受けられた。
イエスが洗礼を受けるその时、圣霊が降り、神が顕现される。神は御子において御颜を启示され、ご自身の声を响かせる。「あなたはわたしの爱する子、わたしの心に适う者」(ルカ3,22)。ここで神の御颜と御声について考えてみよう。
まず、御颜である。御父はご自身の启示において、人类との対话と交わりに入るための特権的な场所を确立される。それが爱する御子である。
次に、「あなたはわたしの爱する子」という御父の声である。これはイエスの启示に伴うもう一つのしるしである。
今日の祝日は、イエスの人性を通して表される神の御颜と御声を観想させる。では、自问しよう。自分は爱されていると感じているか。自分は神から爱され、见守られていると感じているだろうか。それとも、神は远い存在だろうか。神の御颜をイエスの中に、兄弟姉妹の中に认めることができるだろうか。神の御声に耳を倾けているだろうか。
わたしたちは自分の洗礼日を思い出せるだろうか。それは重要なことである。思い出せない时は、両亲や代父母に闻こう。そして、その日を新たな诞生の日、神の霊において生まれた日として祝おう。
おとめマリアにより頼み、助けを祈ろう。そして、洗礼の日を思い出そう。