「わたしたちをイエスのもとに导くマリア」教皇一般謁见
教皇フランシスコは、11月13日(水)、バチカンの圣ペトロ広场で一般謁见を行われた。
この日、謁见中の「圣霊と花嫁。圣霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと导く」を主题とするカテケーシスで、教皇は「生ける神の霊によって书かれた手纸:マリアと圣霊」をテーマに话された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
み言叶、秘跡、祈りなど、圣霊が教会において圣化の业を行う様々な手段の中に、一つの特别な方法、「マリアへの信心」がある。カトリック教会の伝统には、「マリアを通してイエスへ」という言叶がある。マリアはわたしたちをイエスに会わせてくださる。そして、いつも扉を开けてくださる。マリアはわたしたちの手を取り、イエスのもとに导いて下さるお母さんである。圣母はご自身を示すことなく、イエスを示される。圣母の手を通してイエスへ、これが圣母への信心である。
聖パウロはキリスト教共同体を「キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙、(…)墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙」(2コリント3,3)と表現している。マリアも、イエスの最初の弟子、教会の象徴として、生ける神の霊によって書かれた手紙である。まさにそれゆえに、聖母は「すべての人から知られ、読まれる」(参照 2コリント3,2)存在と言える。聖母は、神学の本を読まない人も、神が御国の神秘を啓示される「幼子のような者」(参照 マタイ11,25)も読むことができる手紙である。
マリアは天使のお告げに「お言葉どおり、この身に成りますように」」と答え、イエスの母となることを受け入れた。マリアの「はい」という言葉は、「わたしは、主がお望みのように書かれるための、一枚の板です」と神に答えているかのようである。ある聖書学者は、マリアの天使に対する「はい」という返事は、「神の御前におけるあらゆる宗教的態度の中で、頂点をなすものである」(H. Schürmann, Das Lukasevangelium)と述べている。
マリアは、神の母として、圣霊の圣化の业における道具となった。神、教会、圣性について话され、记された、とどまることなくあふれる言叶の中で、マリアはいかなる状况でも口にすることができる、単纯な二つの言叶を教えてくれる。それは、「わたしはここにおります」と、「はい」という言叶である。主に「はい」と答えたマリアの模范と取り次ぎは、従顺さが求められる状况や、超えるべき试练を前に、わたしたちも「はい」と主に答えることができるように励ましてくれる。
教会の歴史のすべての时代において、そして特に今日、教会はイエスの昇天后にキリスト教共同体が置かれた状况を体験している。それは、すべての人に福音を告げるという使命を前に、『高きからの力』を待っている状态である。使徒言行録にあるように、その时、弟子たちが「イエスの母マリア」(使徒言行録1,14)のまわりに集っていたことを忘れてはならない。
その时、マリアと一绪に他の妇人たちがいたことは确かであるが、マリアの存在はその中でも唯一、特别であった。マリアと圣霊は、キリストご自身という、唯一にして永远の绊で结ばれている。わたしたちが「使徒信条」で唱えるように、「主は圣霊によってやどり、おとめマリアから生まれた」。福音记者ルカは、お告げの时にマリアに访れる圣霊と、圣霊降临の际に弟子たちに降る圣霊の一致を意図的に强调し、それぞれの场面でいくつかの同じ表现を用いている。
アッシジの圣フランシスコは、ある祈りの中で、「王なる天の御父の娘にしてはしため、至圣なる主イエス?キリストの御母、圣霊の花嫁」とおとめマリアを呼び、挨拶をおくっている。御父の娘、御子の母、圣霊の花嫁、マリアと叁位一体の唯一无二の関係を、これ以上に単纯な言叶で言い表すことができるだろうか。
すべてのイメージと同様に、この「圣霊の花嫁」のイメージも絶対化することなく、そこにある真理、非常に美しいその真理を通して理解すべきである。マリアは花嫁であるが、それより先に圣霊の弟子である。マリアは花嫁にして弟子なのである。
聖霊が与える息吹きに従順であることをマリアから学ぼう。天使が去った後、マリアがすぐに「出かけて、急いで行った」(参照 ルカ1,39)ように、マリアは、わたしたちも助けを必要とする人のところへ出かけて行くようにと勧めている。