主の奉献の祝日:教皇「イエスは救い、イエスは光」
教皇フランシスコは、2月2日(日)、お告げの祈りを巡礼者たちと共に唱えられた。
教会暦はこの日、「主の奉献」の祝日と「世界奉献生活の日」を记念した。
この集いで教皇は、イエスが両亲に连れられてエルサレムに上がり、神殿で捧げられるエピソード(ルカ2,22-40)をめぐり説教を行われた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
今日の典礼の福音(ルカ2,22-40)では、マリアとヨセフが幼子イエスをエルサレムの神殿へ连れて行くエピソードが语られる。それは、律法に従い、いのちは主から赐ることを思い起こさせるために、子を神殿に捧げるためであった。圣家族がイスラエルの民が代々行ってきたことを行おうとした时、いまだかつてないことが起きた。
二人の老人、シメオンとアンナが、イエスについて預言したのである。彼らは神を賛美し、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆」に、幼子のことを話した(参照 ルカ2,38)。感動に震える彼らの声は、神殿の古い石の間に響き、イスラエルが待ち望んでいたことの成就を告げていた。神はまさにご自分の民の中におられる。それは神が四方の壁に囲まれ住まわれるからではなく、人々の間に人として生きておられるからである。シメオンとアンナの老いた日々に、世界の歴史を変える出来事が起こった。
マリアとヨセフは、イエスについて「このように言われたことに惊いていた」(ルカ2,33)。実际、シメオンはイエスを腕に抱いた时、叁つの美しい呼び方で幼子を呼んだ。すなわち、イエスは救い、イエスは光、イエスは反対を受けるしるし、と呼んだのである。
何よりもこの幼子は「救い」である。シメオンは神に祈りながらこう言った。「わたしはこの目であなたの救いを見ました。これは万民のために整えてくださった救いです」(参照 ルカ2,30-31)。わたしたちはこのことにいつも驚かされる。普遍の救いがただ一人の中に集約されているのである。なぜなら、イエスの内には、神とその満ちあふれる愛が、余すところなく宿っているからである(参照 コロサイ2,9)。
次に、イエスは「异邦人を照らす启示の光」である(ルカ2,33)。世に昇る太阳のように、この幼子は世界を悪と苦しみと死の闇から救うだろう。今日も、わたしたちはこの光をいかに必要としていることだろうか。
最后に、シメオンに抱かれた幼子は「反対を受けるしるし」である。それは「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」である(同2,35)。イエスは、全歴史とその出来事、また、わたしたち一人ひとりの人生を裁くための基準を示される。その基準とは爱である。すなわち、爱する者は生き、憎む者は死に至る。
イエスとの出会いに照らされ、ここで自问しよう。わたしが自分の人生に期待するものは何なのか。わたしの大きな希望とは何だろうか。わたしの心は主の御颜を见たいと望んでいるのか。わたしは人类に対する主の救いのご计画を待ち望んでいるだろうか。
歴史の光と影の中で、わたしたちの主との出会いを见守ってくださるよう、汚れなき御母マリアに共に祈ろう。