信仰と希望と喜びに満ちた賛歌「マニフィカト」を考察、教皇一般謁见
教皇フランシスコは、2月5日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで一般謁见を行われた。
「希望の巡礼者」をテーマにしたこの圣年中、毎水曜日の謁见では、「わたしたちの希望、イエス?キリスト」をめぐるカテケーシスが行われており、现在はその中で「滨.イエスの幼少期」を考察している。
この日は、「マリアのエリザベト访问とマニフィカト」がテーマとなった。
教皇は风邪のため、カテケーシスのテキストを国务省のピエルルイジ?ジロリ师の代読に委ねられた。
カテケーシスの要旨は次のとおり。
今日は、マリアのエリザベト訪問の神秘を通して、わたしたちの希望、イエス?キリストの素晴らしさを観想しよう。おとめマリアは、エリザベトのもとを訪れる。しかし、ザカリアの賛歌にもあるように、ここでは何よりも御母の胎内におられるイエスが、ご自分の民を訪問されるのである(参照 ルカ1,68)。
天使のお告げに驚きを受けた後、マリアは立ち上がり出発した。聖書の中に見られるすべての召し出しと同じように、「自らを啓示される神に対して、人間ができる唯一のことは、際限なく自分を差し出すこと」 (H.U. von Balthasar, Vocazione, Roma 2002, 29) だからである。イスラエルのこの若き娘は、世の中から身を守ることを選ばず、危険や、自分に対する人々の考えをも恐れず、他者と出会うために出かけて行ったのである。
人は爱されているとを感じる时、爱を循环させる力を経験する。使徒パウロが「キリストの爱がわたしたちを駆り立てている」(2コリント5,14)と言うように、その爱はわたしたちを押し、动かす。マリアは爱に駆り立てられ、亲类の女性を助けに行く。その女性、エリザベトもまた、长い间子を待ち望んだ后、思いがけず身ごもっていたが、高齢ゆえに身重の生活は容易ではなかった。しかし、おとめマリアがエリザベトを访问したのは、
できないことは何一つない神に対する信仰と、その约束の成就への希望を、分かち合うためでもあった。
二人の女性の出会いは、惊くべき影响をもたらした。エリサベトに挨拶した「恵まれた方」の声は、エリザベトの胎内の子の中に预言を生み、彼女に「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(ルカ1,42)と、二重の祝福を引き起こした。そして、エリザベトは「主がおっしゃったことは必ず実现すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(同1,45)と声高らかに言った。
御子のメシアとしてのアイデンティティーと、母としての使命の认识を前に、マリアは、自分自身についてではなく、神について语る。そして、信仰と希望と喜びに満ちた賛歌を上げる。それは、教会で毎日夕べの祈りの际に响く賛歌、「マニフィカト」である(ルカ1,46-55)。
謙遜な主のはしための心からわき出る、救い主なる神に向けたこの賛歌は、イスラエルの祈りの要約と成就を表わす、荘厳な記念碑といえるものである。マリアが単独ではなく、父祖たちに声を合わせて歌う、聖書の響きによって織りなされたこの賛歌は、謙遜な小さき人々に対するマリアの憐れみを浮かび上がらせている。これらの人々こそ、イエスがその説教で「幸い」と呼んだ人々であった(参照 マタイ5,1-12)。
復活的なモチーフにあふれるマニフィカトは、赎いの歌でもある。エジプトからのイスラエルの解放がその背景にある。动词はすべて过去形をとり、现在に信仰の火を灯し、未来の希望を照らす、爱の记忆が充満している。マリアは过去の恵みを歌いながらも、その胎には未来を宿している。
アブラハムに約束された普遍的な祝福(参照 創世記12,1-3)を思い起こされ、出エジプトから、ご自分の民の救いを開始された主は、小さなマリアを通して「偉大なこと」を行われ、彼女を主の御母とされた。
とこしえに忠実な神であられる主は、契約に忠実なご自分の民に、「世代から世代へと」(参照 ルカ1,50)いつくしみの愛の流れを途切れなくほとばしらせてきた。そして、今、人々を罪から救うために遣わされた御子において、救いの充満を示された。
アブラハムからイエス?キリストへ、そして、信者の共同体へと至るまで、过ぎ越しは、その后、时が満ち、メシアによって実现されるまでのあらゆる解放を理解するための、解釈学上のカテゴリーとして现れる。
今日、わたしたちは、主のすべての约束の成就を待つことを知る恵みを、そして、わたしたちの人生にマリアの存在を迎え入れる助けを、主に愿おう。信じ希望するすべての魂は「神の御言叶を宿し、生む」(圣アンブロジオ)ことを、わたしたち皆がマリアの学び舎を通して発见することができるように。